3-dimensionalization

・小学生のみぎり、受講していた「進研ゼミ」なる通信講座内で

同学年の受講生同士での文通を可能にする※企画があり

(※希望者同士をランダムに1対1でマッチングさせる

氏名・住所等の個人情報がお互いに開示されるわけだが

多分個人情報とか色々うるさくない、大らかな時代だった)

僕もそれに乗っかり、選出された文通相手と手紙を交換するなどが始まった

(幸いにも?

ゲームが好きという共通の趣味があることで話題には困らなかった記憶が)

 

中学生・高校生・大学生となるにつれ通信手段がEメール・年賀状になったり、

通信頻度がごくたまーーーにメールが来たりする位になる等の

変化は諸々ありつつも、社会人になり今に至っても細々と関係は続いていたのだが

北海道在住の彼より先日

「東京・埼玉あたりに出張で行く用事があるけど、会えないかな」的なメールが来る…

かくして12月17日、

25年来…四半世紀来とかの文通友達?とリアル対面を果たす機会ができたのであった

(これもある意味オフ会?)

 

秋葉原駅で待ち合わせてゲームセンター行ったりパソコンのお店を色々見たり

北海道土産と埼玉土産を交換したり

レトロゲームが揃っているゲームセンターに行ったりする

 

僕はあんまり喋るのが得意でないので

(話すことを前もって色々用意してはおいたけどあんまり役に立たなくて)

色々気を遣わせてしまった気がするし

9割くらい聞く側だった気がしたけど、色々お話を聞けて楽しかったなあ

 

前にも書いた気がしますけど

(本・テレビ・ネット・ラジオ等の)メディアから得る情報はどこか平面的なんですが

対面で人から聞いた情報の方が立体的に感じるのですよね…

 

…このように(仕事以外で)リアルで対面で人と交流する機会などがあると

無味乾燥で灰色だった世界が潤いと彩りを湛えた世界に見える気がしたし、

平面に見えた生きる世界が立体的だったと

(自分が「世界が平面である事が通常であり、それを疑いもせずに生きていた蛙」

であった事に)気づけた気がしたし、

「0と1の羅列で表現できる世界」が世界の全てではない事にも気づけた…

そんな気がしたのです

 

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・日常的に本を読むのに加え、最近は新聞も読むようになり

「うむ、何やら現実世界の解像度が上がった気がするぞ」等と思っていたこの頃

それだけじゃ解像度は上がっても世界はモノクロームのままだったし

それに気づけもしなかったんだなあと

 

・「誰とも会わない!誰とも話さない!ご飯を食べるのは一人!

声を出す機会はお店の店員さんや家族と最低限な言葉だけ!」

という僕の以前からの大変アレな休日の過ごし方を

「感染リスクの少ない、推奨されるべき生活スタイル」として

この時勢ならもう逆に肯定するチャンスではないかと窺っていたのですが

仕事以外で殆ど人と会わない生活というのはやっぱり色々アレだなと

 

コロナ以前からそうだっだと思うんですけど、こういうのリスクと天秤なんですよね

「引きこもってれば車に轢かれて死ぬリスクも無いけど

お外に出て享受できる楽しさ喜びetcに出会える可能性もゼロになる」的な…

 

・先方は2児の父!上の子は高校生!

当方は独身実家暮らし!

同い年でこの差、価値観とか話とか全然合わなかったらどーしよーと不安でしたが

まあこういうのはいつも杞憂に終わるんですね

 

・友達と同じ音ゲーを一緒に遊んだり、同じ音ゲーの話をしたりっていうの

15年ぶりとかな気がする

数少ない友人の中で、今もなお同じゲームを遊んでいるのは多分彼だけだなあ…

 

・会社では先輩後輩上司部下誰にでも(基本的に)敬語で話してるので

タメ語とか慣れないなあ… 

 

・先方と別れて一人になった電車内、

「ああ、こうして灰色で無味乾燥で平面的で視野も思考も停滞・閉塞・狭窄した

ネットばっかしてる一人の日常に緩やかに戻ってゆくのだなあ」

としみじみ考えてしまったけど

(※数年前某オフに呼ばれた時の帰りもこんな感じだった)

楽しい時間は希少だからこそ、いつまでも思い出の中で輝きを放ち、

ありがたみを身に染みて感じることができるんだね…